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〜揺られ揺られる、日々の思いを、君へ、あなたへ〜

文芸座-factory-

音楽ユニット・ザ・トーマスの作品群、或いは文芸面のブログです。

-お詣り-

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健太郎
昨晩は、神社にお詣りに行く夢を見ました。

詳しい内容は覚えてませんが。

それもあり、今日は近隣の神社へお詣りに行きました。

あ"ーとか、う"ーとか、そういうメンタリティのなか。

神さまの手前、頭を下げてもよいものか。

そのようなことばかりを考えながら。

けど、その階段に座り、しばらくの時を過ごすと、少しずつ心も穏やかになり、心の穏やかになってきた頃、もう一度、お詣りをしました。

そして、帰りに車へ乗り込むと、左手の甲に、綺麗な色彩の毛虫さん。

思わず窓から放ってしまい、ごめんなさいだったかなぁ、と考える。

そんな、参拝の日記でした。

それでは、また佳き日に。


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-咲-

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健太郎
断言する。

人生は無価値である。

人の生きとし生ける果ての世には。

それは争いの果ての絶滅だけが煌めいておる。

だがしかし。

その争いのその手前の辺りで。

あなたとわたしが出逢えたり。

或いは話せたり笑えたり。

そして言い争い傷つけ合い汚し合うことができる。

それはとてもやさしくてかなしくてくるしくてさみしさに満ちた人生の祝福の縮図のように。

そこには一切の意味性はなく価値性も失われておる。

だけれども。

だけれどもだな。

あなたの人生がある。

彼の彼女の君のあの子の。

そっと置いてある物語がある。

それを見たわたしはあなたは君は。

光で在ろうと考えるかもしれぬ。

意味性のないやさしさのこと。

価値性のないしずくのこと。

ふわっと揺れる花びら。

そこにひらひらと。

揺れておるな。

微笑みと。

光り。

咲。


-blog-

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健太郎
blogをさぼってました。

という日記を書こうと思っていたら、意外と更新されていて、あらまあ、無意識って怖いわね、と思いました。

そのくらい、コンスタントに日常に入り込んでおるのは、とてもよろしいことですな。

誰かのために、というと、とっても胡散くさいので、わたしのために、書いておることにします。

音楽とか、絵画とか、いいねって言ってくれる人の増えてくるほどに、つい、誰かのために描いたり、練習したり、してしまうので。

戒めのために、自分のための、新人賞への投函を大事にしております。

そういう感じなので、あんまり冷たいことは、言わないでよね。

あなたのために、なんて、頑張らないからね。

きちんと、なるたけ、わたしのために、頑張ります。

それを、見守ってくれたり、傍らに居てくれたり、そうしたなかで、寄り添える人の居たらよろしいなあ、などとたまに考えます。

まあ、あんまり、欲をかいても仕方ないので、今は新人賞で、入選なり、佳作なり、そういうところを目標に、頑張っております。

それでは、また好日に。

-色んなこと-

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健太郎
色んなことあるし、色んなこと言うと思う。

わたしも、人間だからね。

冷たいことも言うし、心ないこともするし。

でも、まあ、根っこの部分で、理解していたり、受け入れていたり、するから。

こうして、わたしのことを好いてくれる人のことも、いやだなと思ってる人のことも。

静かに眺めておるのだからね。

ほんとうは、何だよ、お前、とか。

愛してるぜ、シェケナベイベ、とか。

言いたい夜もあるけれど。

ぐっと堪えて、静かに、見つめて。

必要かな、と思えば、やさしい声をかけるし。

ほんとに、求められてるかな、と思えば、そっとメールくらい送りますよ。

色んなこと、受け止めていたり、受け入れていたり、するから。

あんまり、友人にも、知人にも。

恋してるかな、と思われる人にも。

恋されてるかな、と勘違いするときもある人にも。

あんまり、知り合いに、気安い連絡をしないのは。

とりあえず、受け入れていたり、受け止めていたり、するから、なんだよね。

だから、また、そのうちに、笑えたらいいね。

いつか、笑って話せるかしら。

それは、わからないけど。

きっと、芥川賞とか、そういう大きな夢ではなくても。

ちょっとした、佳作とか、入選とか。

そういうとき、あぁよかったね、と思ってもらえたら、それより多くを、わたしは望まないよ。

それでは、いつの日か、また、雨の夜に。

-花びら-

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健太郎
例えば、この世の中に、意味のあることなど、ないかもしれない。

10代の頃かな、あらゆるものが無価値に思えて。

だから、ニートになったり、病気になったり。

色んなことが、降りかかってきた。

あるときには、ニートや病気や、そういうものも、我が身に降りかかる、自分の蒔いた種かな、とも考えていた。

けれども、自分の蒔いた種もあるけど、勝手にふっかけられた喧嘩もあるし、何の理由もなしにぶちまけられた憎しみもある。

そういうことにも、気がついてくるようになった。

自分の蒔いた種、は確かに沢山ある。

しかし、勝手に咲いてる花があるのは事実だし、勝手に祀り上げられる花びらも、多分にわたしの身体中を駆け巡っておる。

気がついたときには、恋愛でしかない渦中に、いつのまにか、そのなかにいて、なんかもうどうにもならないこともあるし、ふと周りを見たら、果てしない憎しみに取り囲まれておることもある。

それが、どこからどこまでが、自分の蒔いた種かというと。

それはきっと、最初の種を蒔いたのは、わたしである。

そういうケースもあろうと思う。

けれども、ほぼほぼ、そんな種は蒔いた覚えもないし、どうしてこの人は、いつのまにか、わたしの目の前にいるのだろう。

一体、いつから、この人は、わたしのことを見ていたのだろう。

それが、ほぼほぼ、もやは何にもわからないケースもあり、少なくとも、わたしの目の前では、日常茶飯事に、繰り広げられておる。

いつから、わたしは、見られていたのだろう。

どこかで、わたしは、種を蒔いていたのだろうか。

その、種が、まったくどこにも見えないケースである。

そういうケースもあることを、わたしは、ここ数年で、腐るほど沢山、経験してきた。

誰が何を思いながら、誰が何を求めながら、そこにいるのか、わたしの現実把握能力では、判別不可能なのである。

だから、わたしは、本を書いておる。

その、日常を、なるべく普遍化したくて。

きっと、ふわふわした日常には、怒りも憎しみもあろうと思う。

それでも、あなたに、幸せを。

では、また佳き日に。